更新:2023年2月6日

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自動車などがない時代、人はどこに往くにも自分の足で移動しました。そうした道は、自動車移動が当たり前になった現在、ほとんどが誰も歩くことはなく、藪化したりして廃道になったりしています。宮古市内にもそうした旧道が多くありました。その一つ、千徳や、根市、近内などの人々が、昔津軽石や山田などに往く場合、わざわざ宮古町から閉伊川を船で渡って、藤原、磯鶏、高浜、金浜と歩くより、松山から山を南に越えれば、あっという間に八木沢に着き、そこを通る浜街道に接続できました。その坂の名前は”白根坂”といいます。松山に在った館の主の白根氏に由来します。その一つの坂をレポートします。

 

(見出しの写真は、その白根坂途中から宮古湾を眺めたもので、ラサの煙突も見えます)

 

 

 千徳の上鼻の閉伊川向かいの松山、県立高等技術専門学校の門の前の道を出羽神社方向にほんの少し行った道の南側に、石碑群が佇んでいます。この道は上鼻から川の渡しを経て、南に向かい、”白根坂”を越えて八木沢と金浜の村境の八木沢側にでて、浜街道に合流する旧道です。

 現代の地図上でみると、田鎖から折壁、大野を経て根井ノ沢、荷竹、駒峠を越えて豊間根村、荒川と往く宮古街道と浜街道を結ぶ旧街道の脇道の一つと考えられ、千徳、近内近在の人々が豊間根、山田方面に向かう場合頻繁に利用された脇街道と推測されます。松山地区で聞き込みを行った際、年配の方が子供の時におばあさんに連れられた、すげえ嫌だったども、白根坂を越えて、金浜に歩いて泳ぎに行った、と言ってました。

 宮古町付近の人たちが南に向かう場合、藤原に渡って、磯鶏、八木沢、金浜と歩いたと思いますが、前述の地区の人たちは、この道を利用する方が近道であったと考えられます。白根坂の松山側の登り口に”西国順禮塔”が建っています。ここを通って多くの人々が参宮した証拠です。

  また、松山側から白根坂に入ると、坂の入り口に石碑群があるところがY字路になっていて、坂は右に入ります。左へ行くと、”隠し里”と呼ばれる山陰の小さな平地に数軒がある土地があります。ここは白根舘から逃れた白根氏の後裔が住んでいるとされます。

 ”隠し里”は伝説ではなく、実際にあった出来事に基づくことになります。

A)閉伊川縁から山に沿って旧道を南下すると石碑群が道端に佇んでいます。50mほど南東に往き、Y字路を右折すると、白根坂の入り口です。

C)道を南下していくと、旧道を雰囲気が残る林間の道となり、そこに西国巡礼塔などが山の斜面にひっそり立っています。西国巡礼塔は江戸時代後期、お伊勢参りなどに行って帰ってきたことの感謝などの目的でその道筋に作られました。

E)白根坂の峠

ここが峠で南側に下って、八木沢峠の近くで浜街道に合流していきます。

B)白根坂北側の住宅街の旧道を南下していくと、松山神社の別れ付近に石碑が存在し、ここが旧道であったことを教えてくれています。

D)まさしく白根坂を登って行くところの長根を縦に掘り通している旧道です。